天祖神社のこと
地形からみる
この神社は、荒川水系の一級河川「石神井川」に南面する緩やかな丘(標高 32米)に位置しています。付近の「向屋敷遺跡」や神社裏手にあった「猫塚」「狐塚」の存在から、古代からこの川の近くに人々が住んでいたことが考えられ、今のような神社の形態が整えられる以前からここは聖地であったのかもしれません。
御祭神―伊勢の神宮と徳川家康との関わり
天祖神社蔵「天岩戸開」絵馬
「天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)」を主祭神とし、天照皇大御神の御饌神(お食事のかみさま)「豊受姫神(とようけびめのかみ)」、そして徳川家の産土神といわれる日吉(日枝)神社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が同殿にまつられています。境内にならぶ、末社には、「大日孁貴(おおひるめのむち)」を祀る伊勢神社の他に、神宮の別宮の祭神「月読命(つくよみのみこと)」をまつる「月読社」があり、伊勢の神々への信仰が色濃くみられます。また末社の一つ「日枝神社」はもと「権現社」とよばれていました。
当初は上板橋村向屋敷(現・常盤台 1 丁目)に鎮座する大きな社で、幕府の直轄地だったこの地に、家康が鷹狩にきた記念に建立したという伝承があります。この権現社や本殿の相殿神「大山咋神」と共に、この地と徳川家康とのつながりが感じられます。
創建にまつわる二つの伝承
一つは、鎌倉時代、後深草天皇(執権:北条時頼)の康元年間の創建という伝承があります。当社の別当寺・長命寺の本寺である安養院(武王山最明寺)は北条時頼の創建とされていることから、確かにこの上板橋地域の中世の歴史と深く関わりがあると考えられます。もう一つは上板橋村字原(あざはら)(神社周辺の地)に天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したというものです(『北豊島郡誌』)。この「伊勢神社」は現在境内に「末社」としておまつりしていますがこの影向跡がどこにあったのかは詳らかではありません。
旧上板橋村の鎮守
「神明宮」と称されていた当社が鎮座する旧上板橋村は、板橋地域のなかでも古い村のひとつでした。この村には中山道の脇往還といわれ、川越城と江戸城をつなぐ「川越街道」第一番目の宿場「上板橋宿」がありました。かつては村内のどこからも、うっそうとした神社の杜が見えたといいます。
染井王子巣鴨辺絵図/嘉永七年
大田南畝の詣でた社
「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」
江戸の文化人・大田南畝の地誌『武江披抄(ぶこうひしょう、または ぶこうひさ)』には「神明宮」についてこのように記されており、江戸時代には、社殿はすでに「神さび」を感じるような風情であったことがわかります。この時南畝がみた拝殿は、社殿の右手に移築された「参集殿」と考えられます。付近に庚申塔 がたち、えのみの木がシンボルツリーであった神社の入り口「ダイモン」は現在よりも、さらに石神井川よりで、約 200m 近くの参道は松・杉を主体とした樹木が繁茂するフクロウの鳴く、昼間でも暗い深い深い森でした。
庚申塔
明治時代のお札
社号改称を経て
「神明宮」は、明治時代には「神明社」と称されるようになり、明治5年(1872)には村社と定められ、さらに明治 6年には東京府の命により、「天祖神社」と改称されます。
昭和10年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、ときわ(常盤)なる松 ―当社のこの「老松」にちなんだといわれています。
昭和24年、境内地の約半分を開発し、昭和25年には新たに南口も開設され、昭和26年には「武蔵常盤駅」から「ときわ台駅」と改称されました。
駅前の発展した今もなお鎮守の森が残され、かつての杜の面影を色濃く残しています。
鎮座地
板橋区南常盤台2−4−3
東武東上線ときわ台駅南口より徒歩1分
ご祭神
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
豊受姫神(とようけびめのかみ)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
お末社
【石祠】
◆榛名神社
火産霊神
(ほむすびのかみ)
埴山比賣神
(はにやまひめのかみ)
【末社】
◆伊勢神社
大日孁貴(おおひるめのむち)
◆月読神社
月読命(つくよみのみこと)
◆日枝神社(権現社)
天思兼尊(あめのおもいかねのみこと)
手力雄尊(たぢからおのみこと)
天表春尊(あめのうわはるのみこと)
◆北野神社
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
◆稲荷神社
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
神田流神明囃子
毎週土曜日午後7時から練習しています。初心者でも気軽に参加できますのでご興味のある方はおいでください。年齢、経験等は問いません。
稽古場所>ときわ台天祖神社 神楽殿
連絡先>0339566168 神田流神明囃子保存会 小林まで